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太池邸
近代新見地域の商業の中心地として栄えた中町界隈にあって、その中核的な商家の一つ。明治末期の建物で新見初の百貨店として呉服をはじめ色々な商品を扱っていました。現在は新見市が借り受け、交流拠点施設として利用させています。
寿福松原(通称松原通り)
この通りは、関のお殿様によって寿福松原と命名されております。藩祖関長政侯の院号「寿福院」にちなんでつけられた名称です。現在でも通称松原通りです。昭和15年に枯れて切られるまで樹齢250年の寿福の松がありました。第10代藩主博直侯がお書きになった「寿福松原記」は西来寺に什物として奉納されています。(昔の写真)
石垣と川
新見藩関長治侯がこのまちをつくるまではこの辺りを高梁川が流れていたようです。消火器庫の裏側に溝があります。昔の川の岸の跡と言われています。まちづくりの際、川の位置を変え、現在の松原通りの辺りは川原を埋め立ててつくられたまちです。
温故館(渡辺屋敷)
この渡辺家は用人だったようで、商人との中を取り次ぐところでした。庭には伊達政宗公から贈られた五葉の松がありました。屋敷の前には惣門がありました。現在は市の施設「温故館」として使われています。
四間幅の道(本丁)
江戸時代、四間幅の道は5万石以上の藩でなければつくってはいけないという法度がありました。新見藩は移封後、厳しい法度を破り、堂々と四間幅の道をつくれたのは何故でしょうか。大変な疑問があります。
新見藩創設の様子を書いた「新見記」(儒医蜂屋又玄著)に「名は実の寶なり」(名称と実質)と言う言葉が書かれています。また江戸城では関家は5万石以上の殿様の処遇を受けていたと伝えられています。それは関長治侯の夫人が成瀬隼人正(犬山城主で尾張徳川家の附家老)の娘であったことや徳川家との姻戚関係からも伺われるのではないでしょうか。
思誠舘跡碑
思誠館は岡山県下で3番目に出来た藩校です。新見藩3代藩主関政富(まさとみ)侯によって宝暦5年(1755年)につくられました。
思誠館(しせいかん)の名称は、孟子の言葉に「誠は天の道なり、思誠は人の道なり、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり」とあり、これから付けられています。
丸川松隠碑銘
丸川松隠没後95年目に政府から従5位の追贈位があったのを記念して、昭和4年に新見阿哲の有志が松隠会を結成し、この地に仙台石で顕彰碑をつくりました。(丁度この頃新見に鉄道がついています。)篆額揮毫(てんがくきごう)は近衛文麿公、碑文は佐藤一斎によります。
新見舘址碑
新見藩の舘址の碑です。碑の位置は変えられています。現在碑があるのはかつて正門のあった場所です。館はこのグラウンドの一角にありました。撰文(漢文の碑文)は犬養毅氏(元総理大臣)、篆額(てんがく)は新見藩第10代藩主の博直侯が書いておられます。当時同じ貴族院議員で交流が深かったようです。
風木谷川
高瀬舟発着場跡【三日市河岸(がし)】
新見河岸は本町の裏と三日市(真福寺裏)にありました。この河岸の石組みは水谷巻(みずのやまき)という独特の組み方で、350年以上経った今でもあまり崩れていません。「三日市ケレップ」と呼ばれています。
ここから新見藩のみならず備中北部の天領や松山領を含めた地域の鉄及び産物の大部分が積み込まれていました。新見河岸から出る高瀬舟は3と8の日に月6便、朝8時出発で、高梁1泊後、2日で新見へ帰りました。玉島へは往復で1週間と決められていました。通行料は現在のお金で3千円〜4千円位でしょうか。
江戸時代の札座・鉄問屋・造り酒屋 津国屋&内蔵(倉庫)
津国屋内蔵は文化11年(1814年)の建物で、山田方谷(9歳)が丸川松隠の家塾で勉強をしていた時代です。
津国屋内蔵に当時津国屋で使われていたものや、一間半七社の神棚、酒蔵の鬼瓦、山田方谷の手紙等が展示してあります。
三味線横丁
太池邸
寿福松原
(通称:松原通り)
石垣と川
温故館
(渡辺屋敷)
四間幅の道
(本丁)
思誠舘跡碑
丸川松隠碑銘
新見舘址碑
風木谷川
高瀬舟発着場跡
【三日市河岸(がし)】
江戸時代の札座・鉄問屋・造り酒屋
津国屋&内蔵
三味線横丁
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